鬱が寛解すると難しい話がわからなくなる
最初の頃の記事読んで
はてな……?何か難しいぞ……?
って自分で思うように。(笑)
結構、鬱状態のような落ち込みの激しい人の話を聞くと、この人何言ってるんだろう…?
と、悪意なく思うことがあると思います。
昔の文豪の小説とかも、そうかな。
なんだか難しいな……という感覚。
でも、何故か鬱の時はそういう難しい言葉が
わかるわかる!となるのです。
精神医学的には、鬱的防衛というそうですが
過剰に自己内省が行われている状態。この逆は躁的防衛と言われ、
自分の心理的葛藤を他人のものと投影し、他者に攻撃的になることで自身の鬱感情から逃れる防衛反応です。
人は社会的ストレスに対してこのように自己防衛反応を起こして行く訳ですが
鬱的防衛(過剰な自己内省)に陥っている時に賢くなるそうです。
社会的な問題に対してどのように対処するか、自分の問題として抱えて行くのですから、
対処法を覚えて賢くなるのですね。
なので、鬱=大人になる過程の課題として肯定的に認識する専門家も存在するようです。
だれもが、多かれ少なかれ通る道、ということでしょうか。
当然、鬱病という明らかな問題として現れなくても、鬱感情、ストレスというものはだれもが抱えているものですから。
で、話は戻りますが
中二病という言葉がありますが
それも鬱的防衛と言えるのではないでしょうか。
反抗期の子供は、自尊感情と社会的価値との距離を測るために
色々と試行錯誤しますね。
詩を書いたり、音楽が大好きになったり、そういったことも
心的葛藤を軟化させて行くための一つの大切な過程だとか。
ここで心ない大人にそういった自分の世界を作る作業を嘲笑されてしまったりすると、
その子は反抗期が上手く築けず、心理的な問題を抱えたまま大人になってしまうとか。
芸術家に精神を深く病む人が多いのは
というかそういう人に芸術が適正があることは
心的葛藤が深いほど創造的な活動が豊かになるということでしょうか。
精神病がなおって創作物の内容がつまらなくなったと言われる芸術家もいますね。
要は、葛藤が少なくなるということは、より簡潔に世界を認識して行くということですから
なんと言えばいいか……
繊細な言葉を必要としなくなるのかな。
鬱がなおって来て、難しい言葉を理解できなくなったというのも、そういうことと関係があるような気がします。