楽しく強迫性障害

強迫性障害は全然楽しくないです。なおさないと…というプレッシャーを下げるためにあえて。

一年前の記事について思うこと

ほぼ寛解した現在から過去の記事を読むと

 

 

ああ、無理してるね…と思います

 

 

カウンセラーさんとの諍いとか、SNSとの付き合い方とか……。

 

 

鬱じゃなかったら、そんな悩み方はしないな、という内容で。

 

 

カウンセラーさんのこととか、悩む以前に、なんか説教されてる?いやだな、この人患者さんの話聞くの嫌なんだな

 

と思ったら、健康な状態だったらさっさと別のところに切り替えてると思います。

 

 

カウンセラーは難しい仕事だから…とか悪気はないから…とか、曖昧な態度が余計カウンセラーさんを威張らせてしまったのだなー…と、今はわかるのです。

 

 

なんなんですかね、なんで鬱のときは普通のときなら なんでそんなことで?ってことで激しく悩むのでしょうか。

 

 

例えば、マッサージ店で人は良いけど痣ができるような施術をされて自信満々でいられたら、二度と行かないですよね。

 

 

マッサージって大変な仕事だから…自分にはできもしないのに人の仕事にダメ出しするなんて…と思いながら痣を作られても通い続けるなんてありえないですよね。

 

 

寛解出来てみて、自分も元はそういう普通の判断力があったよな、と思い出したのです。

 

 

なぜあそこまで自罰的になり、明らかに問題のある人間関係から離れていかなくなるのだろうと不思議に思います。

 

 

あと、カウンセラーさんから離れていくとき、すごい攻撃性が出て、本人には何も伝えなかったのですが、カウンセラーさんに対する不快感で本当に苦しくなってました。

 

離れていく自分を否定しながらカウンセラーさんを攻撃してる自分もいて、引き裂かれてました。

 

 

現在は、まあ、カウンセラーさんも悪気はないのだから、否定しても仕方がないよね、患者さんが指摘してくれないからわからないと言いながら、指摘されたらされたで不満を言って絡みに行きそうな人だったし…

 

 

ていうか、他の患者さんの悪口?不満とかを私に言ってたから私が何か言ってもそれを被害と思って他の人に言いに行くだけなんだろうな、とか

 

そもそも私が持った不満や疑問ぐらい私以外の患者さんや同業者から指摘されたことあるだろうな、でもやめなかったのだろう

 

 

と、想像できることだったので

 

あえて不満を伝えることはしませんでした。

 

 

他所でカウンセリングの相談を一般の人にしていたら、オープンなところだったので色々な人がいて、意見を伝えないあなたが悪いのでは?ということを攻撃的な言い方で言われたのですが

 

 

不満があるときに本人に相談したくなるような人って最初から本人に言える状況が出来上がってるので、

 

私が揉めたカウンセラーさんは、何か、言ってもこちらが悪者なりそうだな…という気配があるのでやめておきました。

 

 

でも、その一般の方からしたら、そうやってお膳立てされるまで不満を言えないこと自体が悪いということを言いたかったのでしょうね。

 

 

それは正論だったと思います。

 

 

私自身が甘えたところがある性格なので、甘えた他人が強烈に許せない自己中心性があったのだろうな、と思います。

 

 

でも、現在は良くなってみて、

 

まあ、それはそれでいいかな、と思えました。

 

 

 

自分の自分に対するダメ出しがきつくなくなった分、カウンセラーさんのことも、単にコミュニケーションが苦手な人だったのだな、と、普通のことが思えるようになりました。

 

結局は自己否定を止めることが他人とも揉めないための一番の方策なのだな、と思いました。普通のことですが。

 

 

鬱な感情を人前で隠さないと、鬱な人を呼び込んでしまうのだなー…と、カウンセラーさんとの諍い、コミュニティでの攻撃的な人との出会いで覚えました。

 

 

自分の自己否定が他人の負の感情を引き出して余計悩むことになるのだなー…と

 

 

今現在、うつ闘病をした作家さんのエッセイを読んでるのですが

 

あるあるだよなーということがいっぱい書いてあって。

 

普段なら揉めないような人と揉めたり、自分の許容値が下がって他人の些細な行動に本当にイライラしてしまうのですよね。

 

その方は猫の中絶に反対して、生まれた子猫を崖から落として殺したというエッセイストに物凄い怒っていて、すごい真剣な文章を書いていたのですが

 

 

私個人としては、たしかにその人はひどいし、非難する気持ちは普通だと思うけど、鬱じゃない時なら、変なことする人もいるね、くらいの気持ちで、そこまで憤慨しなかったのではないかなー…となんとなく思いました。

 

 

鬱のパワーが普段の怒りを倍速させていくのだろうな、と。

 

 

なんか、終わってみると全てが、客観的に思えるのですよね。

 

なぜあんなに必死だったのだろう…とか。

 

 

他の人も経験していることじゃないか。とか。

 

 

どうして唯一無二の自分一人の悩みだと誤解していたのだろう、とか。

 

 

鬱は単純なことが感覚的にわからなくなるからコワイ病気なのだと思いました。

 

あまりに日常的に単純に曖昧にこなしていることを、一旦自分を疑い始めると、永遠と矛盾に気付くようになり、

 

 

それを理屈で正当化できるまで自分を否定し続ける病気なのかなー…と思いました。

 

 

自然な感情が死んじゃうのですかね。

 

 

カウンセラーさんも、そういう理屈で殺されてる私といるのが辛くて、あえて無責任にはしゃぐことで私に何か気づいてほしかったのかもしれないし、私から伝わる重いオーラから自分を守るためにわざと無神経になっていたのかもしれません。

 

 

いずれにしても、鬱状態の他人と付き合うのは大変なことだし、人に理解されようとすることで更に傷ついてしまう病気だな、

 

 

結局は自分でなんとかすることでしか解決しないな、と思いました。

 

 

その作家さんも鬱の状態は5年続いたと仰っていて、私も全く同じ期間でした。

 

その方は仕事をしながら時々休む療養のようだったので、私とはちょっと違いましたが

 

その方も休養を取ればすんなりと寛解する病気だと仰っていました。

 

なおらない人の場合、そのまとまった休養を取るのが難しい話なのだと思います。

 

 

いずれにしても…なおってよかったです。