関係性に名前をつける効能
数年前から毒親という言葉が流行り出しましたが、
愛着障害を抱えた親子関係に於いて、
子供が親に毒親、と名前をつけて気持ちを整理することについて書いてみます。
結論から言うと、この毒親が!と言ってすっきりする人は毒親呼びでいいし、
私個人としては毒親という呼称を知ったのはよかったけど
その呼び名に拘ることは逆に混乱を招いたという感想でした。
機能不全家庭に於いて子供の立場で1番困るのが病んだ親との距離です。
親にいびられて育った…人格否定は当然だったと人に言っても
大変だったね。とはいえ、育ててもらったんでしょ?お母さんも大変だったんじゃない?
というのが世間一般の返答だと思います。
しかし、この言葉が愛着障害当事者には大変苦しい。
どこの家庭でも母親が不機嫌になって子供を怒鳴るなんてことは日常茶飯事だと思います
しかし、やはりそこには程度問題があるので
おいそれとは他人の事情には口を出せないし
逆に、愛着障害当事者が機能不全家庭で育っていない人、もしくは、機能不全と気づけていない人に意見を求めたら
よくわからないけど許してやれば?
(許したら自分も楽になるんじゃない?)
程度の返答しか得られないのは当然だと思います。
だから、意見を求める側も注意が必要なのだと体験を通してわかるようになりました。
それを理解できなかった時は、
世間の声との戦い…の様に思えて
大変苦しみました。
で、毒親という呼称について戻るのですが
この呼び方が、自分自身の認識を縛っているという感覚が芽生えた時期があったのです。
どういうことかと言うと
毒親という呼称そのものが
親は子に対して本来やさしく愛情をかけて保護する役割
+
それをしない親は子にとって悪
という前提の上に成立していて
この事が逆に、
自分の子としての責務を自分に刻みつけている
(親が親としての役割を果たさないと言うなら、子として親を大切に扱う義務を果たしているのか?的な)
↑これは私が私に対して問いかけていた呪いの言葉です
と思ったのです。
つまり、あえて毒親と呼称することで
自分と親という個人対個人の対人問題が
家族だからねぇー
というざっくりとした括りの中で
矮小化されてしまう恐れを感じたのです。
回りくどくて申し訳ないのですが
「親と上手く行かない」という愛着障害最大の障害を
家族という枠組みを積極的に取っ払って考えることで
「私の親という立場の1個人と上手く行っていない」と認識し
家族なんだからーと曖昧にされていた問題の詳細を
対他人と同列に扱うことでクリアーにできるのではと感じたのです。
とはいえ、なんでもかんでも家族の問題を背負って、「私が悪い…」と言うしかなかった人が
自分は悪くなかった!親は本来子を保護する役割にある!
という自覚を手にするにあたって
毒親という言葉を使う意義はあると思います。
ただ、更に問題を明瞭化するにあたって
親を家族という前提から抜けた一個人として扱うことは
自責の念から開放される一つの手立てだと感じています。
なんか、それならそもそも愛着障害という病名こそ家族に問題を追求する認識なのではという気がしますが、
やはり毒親という呼称に相手を訴追する色が含まれているので
個人として「私は家族関係に問題があったと認識していて、責任の所在を明らかにしたい(責任を追求するつもりはない)」という姿勢に
「この毒親が!責任とれ!!」という攻撃性が加わると感じました。
もし本当に相手が毒親だったら相手は責任を取れない性質の人なので
自分の憎しみだけが宙に浮いて逆にそれで当事者が苦しいです。
という意味で、言葉によって憎しみを育て過ぎないことは大切だと思いました。
問題整理の途上に於いては、この考え方が苦しい人は当然いると思います。
人それぞれ段階があると思います。
一つの考え方として、参考にして頂ければ幸いです。